前回の記事の執筆にあたり、複数の製品を用いて様々なギター・ベンドの表現を調べていた中で気づいた点がありました。
それは、ギター・ベンドの表現は欧米式と日本式で異なりますが、基本的に舶来品である楽譜作成ソフトウェアは、日本式のギター・ベンドを表現するのには苦手であるということです。
これは今後、楽譜作成ソフトウェアを用いてギター・スコアを制作する際の表記慣例にも影響する可能性がありそうなので、この記事ではそれについて考えてみたいと思います。
時代や地域によっても違うギター・ベンドの記譜表現
まず、ギター・ベンドの記譜表現における欧米式と日本式の違いを整理しておきます。
(1)欧米式のギター・ベンド表現
欧米のギター・スコアでは、五線側のベンドは角ばった山型のスラーのような特殊図形(以下、山型スラー)で表記し、タブ譜側のベンドはカーブを描く矢印の特殊図形(以下、カーブ矢印)で表記するのが、現在では一般的なようです。
タブ譜の数字に着目すると、欧米式ではピッキングする音のみ数字を付与し、ベンド後にピッチが変化した音については数字は非表示とし、カーブ矢印のみでピッチ変化を表現します。
1980〜1990年代の欧米式ギター・スコアでは、五線側とタブ譜側の両方でカーブ矢印を用いているものがあり、おそらくそれが古いスタイルと思われます。
カーブ矢印については、筆者の手元にある中では最も古い1986年刊行のロック・ギター出版譜を見ると、少なくともこの時点で既にそのスタイルが使われていることが分かります。(なお、この時代はまだ楽譜作成ソフトウェアは存在しません。)
(出典:”Steve Morse Songbook”, 1986 Cherry Lane Music Co., Inc., ISBN: 0895243237)
前回の記事で取り上げたように、現在の楽譜作成ソフトウェアの多くはこの「山型スラー+カーブ矢印」、もしくはカーブ矢印のみのベンド表現を用いる仕様となっています。
(2)日本式のギター・ベンド表現
日本におけるロック・ギターの代表的な記譜法の一つに、1969年創刊の老舗ロック・ギター誌である『ヤング・ギター』のものがあります。
比較のため、欧米式のベンド表記を以下に再掲します。
日本ではベンドはチョーキング(Choking)と呼ばれることから、ヤング・ギター誌でもその頭文字を取った「C」という記号でこれを表現しており、また図形記号としては一般的なスラーを用います。
タブ譜の数字に着目すると、欧米式のタブ譜ではベンド後の数字を非表示にしているのに対して、日本式では同じフレット番号の数字で表現するため、ベンド直後に五線譜ではピッチが上がる一方、タブ譜では数字(=ピッチ)が不変と、両者の間に不整合が生じます。
しかし、実際の演奏ではベンド中も押弦するフレットは変わらないため、これは運指の分かり易さという点では合理的な表現と言えます。
楽譜作成ソフトウェアで日本式のギター・ベンドを表現する際の問題点
前回の記事で紹介したGuitar ProとDoricoの他、SibeliusやNotionも加えた楽譜作成ソフトウェアの大多数は、五線譜とタブ譜の内容がリンクしており、タブ譜に数字を入力すれば対応するピッチの音符が五線譜にも自動的に入力され、その逆も成り立つという便利機能を搭載しており、五線譜+タブ譜のギター・スコアが容易に制作できるようになっています。
しかしベンドに限って言うと、この仕様は欧米式のベンド表現を前提としたもので、敢えて五線譜の音符との整合性を無視してベンド後にタブ譜の数字を変えない日本式のベンド表現は、音符のピッチを変えればタブ譜の数字も自動的にそれに追従する楽譜作成ソフトウェアに標準的なタブ譜入力機能では実現することができません。
例えば、Doricoで日本式のベンドを表現しようとすると、この譜例のようにベンド後の数字が7に固定されず、9などベンド後のピッチに対応したものに変更されてしまいます。
ベンド直後にタブ譜の数字を変えたくない場合、リズムはそのままにベンド後のピッチを変えず、従ってタブ譜の数字が変わらないダミーのトラックを別途作成して元の五線譜と組み合わせたり、あるいはそのプレイバック時にはダミーのトラックをミュートする、といった複雑な設定が必要となります。
FinaleとMuseScoreだけが、日本式のギター・ベンドを表現できる
主要な楽譜作成ソフトウェアの中でも唯一、Finaleだけは、五線譜とタブ譜の内容がリンクしていません。
そのため、いちいち相互に内容をコピー&ペーストしなければならないのが面倒ですが、五線譜とタブ譜の内容がリンクしていないからこそ、敢えて五線譜の音符との整合性を無視する日本式のベンド表現も、Finaleであれば問題なく行うことができます。
・Finaleによる日本式のベンド表現
(※タブ譜は120%に拡大表示しています。)
MuseScoreでは、五線とリンクさせたタブ譜、リンクさせないタブ譜を選べますので、やはりFinaleと同様に日本式のベンド表現が可能です。
・MuseScoreによる日本式のベンド表現
国内ギター誌のバックナンバーを調べていくと、日本式のベンド表現は現役で最古の楽譜作成ソフトウェアであるFinaleが米国にて登場した1988〜1989年頃には既に確立されていたことが分かります。
しかしFinaleは日本のギター市場向けに開発された製品とは思われませんので、Finaleで日本式のベンドが表現できるのは、たまたま製品仕様と記譜慣例が一致しただけと考えられます。
Finaleでは少なくとも2004年以降からベンド表現の基本仕様は変わっていませんので、これが変わる可能性は今後も低そうに思えます。
日本式ギター・ベンド表現の行く末
現代的なロック・ギターの原型と言えるGibsonのレス・ポールは1952年、Fenderのストラトキャスターは1954年に発売という楽器の歴史の浅さを反映してか、ギター・ベンドの記譜法は不統一の時代がこれまで長く続いていました。
しかし今後、楽譜作成ソフトウェアの普及が日本の一般ギター愛好家にも進んだ場合、より簡単に入力できる欧米式のベンド表記が日本式のそれに取って代わるのかも知れません。
過去にも、楽譜制作を助けるために開発された楽譜作成ソフトウェアの仕様が逆に記譜慣例に影響を及ぼしたと思われる事例が見られました。今後はギター・ベンドについても、同様なことが起こる可能性が高そうに思えます。
そのことを考えると、ギター愛好家やギター・スコアの出版業界は楽譜作成ソフトウェア開発者とのコミュニケーションをより深め、ギター・スコアリング市場が求める記譜表現のあり方を考えて開発者に向けて提言していくことが望ましく、まだギター・ベンド表記のグローバル・スタンダードが確立していない今こそ、その必要性を感じます。